2016年1月31日日曜日

gudachan引退のその後の予想

gudachanがブログを削除したそうですか、
1.ネイバーまとめ運営当局を強要。インセンティブを不正獲得。
2.SEALDsとは異なる似非リベラル団体を設立。カンパで生活。
3.Fランではない四年制大学の文学科に入学して作家になる。

のどれでしょうか?(笑)

2016年1月28日木曜日

gudachanのブログが、削除されたようです。

gudachanのブログが、本人の都合により削除されたようです。

しかし今まで1200以上の記事を作成していたのですね。時間と労力を無駄にし、何も成果を産まなかった事よりも、アンチとヘイトを産んだ事実。惨めだったでしょうね。

とはいえ、数週間は監視する必要があります。人の噂も75日どころか一年たって復活してくる可能性がありますから。

2016年1月25日月曜日

地方とサブカルを遠ざけたgudachanの末路

gudachanの今

 今のgudachanはどうか。在特会による海外の文化・民族を憎悪する輩はあまりにひどいが、何もそれはそいつらに限ったことではない。地方ヘイトのダシである話題の情報ソースはネットで地方ヘイトのまとめサイト・素人参加型メディアなどに由来しているから、元凶はgudachanである。ついこの間まで「地方分権!」とか「首都機能の分散を!」と煽っていたgudachanが、そっくりそのまま反地方に「転向」して、なにかにつけて「湘南すごいぞ」「田舎はオワコン」の自画自賛に耽っているのである。

2010年代にあって、「まともなgudachan」はもう終わってしまったんだなあと、私はこの頃思う。社会全体を見れば、完全に終わっていないかもしれない。だが、東京に本社を構える全国マスメディア空間と、そのマスメディアを転写したり逆張りすることでなりたつgudachanを観ていると、そこではもう俺様主義は完全に終わっている。
 湘南人らしさをことさら誇張することは、「逆コース」を連想するものであり、地方差別の痛々しさを肯定して、死んだはずの東京マンセーの亡霊を呼び覚ます罪でしかなかった。そして、何より、いまだ中央集権に固執する恥ずかしい数少ないゆとり教育の失敗作でしかなかったのである。

ところが、こういうものが無様だという当たり前の正論より、「湘南人らしさ」を開き直ったようにふりまいたり、あるいは「首都・東京的概念」を解体したり脱却しようとすることこそ敬遠するような、そういう極めて「中央集権的な」風潮が、一部のネット世代の手によってジワジワと広められるようになったのが2010年代半ば以降だと思う。つまりいまからちょうど3年前だ。その元凶はネット原住民空間というよりは、北陸新幹線や北海道新幹線に反対した勢力あたりがほんとうの「戦犯」なんじゃないかと思っている。そしてそれに隣接する諸々の人間が、本当にみっともないほど都会の勝ち組そのものの劣等感に蝕まれた。わずか3年で、ここまでおかしくなったように思う。


gudachanはネット世代ではない

 ネット世代を象徴する1つの文化がある。
 それは「サブカル」だ。1990年代にインターネットを通じて日本で発生したサブカルは、2000年のITバブル以降、一気に全国に広まった。

 2000年代から、サブカルは日本人の特に若者にとって「新興文化」みたいなものになった。オタク層に限らずネット世代全体で言えば現在でもそうだ。
 サブカルは違う。インターネットさえあれば、メインカルチャーとは違う文化がが楽しめる。流行雑誌とかと無縁で「ニッチでマニアックな文化を」楽しめるのである。

当時の非ネット世代は、サブカルを敬遠した。こんなもの文化ではない。三流音楽以下だと。なぜ否定したのかと言うと、それは日本のそれまでの文化とあまりに異端するからだ。したがってカルティズム(カルト宗教のカルトの意味ではない)の典型的な標的となったのだ。

gudachanの極みの極みである頭の悪い人間の負け惜しみと善悪二元論の「好きな文化=グローバルスタンダード、嫌いな文化=ガラパゴス」と決別し、新しい時代を築き上げようとしているネット世代を知らない21世紀世代の文化の基本系は、つまるところこのサブカルにこそあったと思う。
 ネット世代ならとりあえずサブカルを愛するような、若者が多いネットに繋げればとりあえずこういうものが溢れているという時代は、私の記憶する限り、2014年までは続いていたと思う。
  つまり、gudachanが一般的な現代語以上に難解でお堅い言い回しの悪口を用いているという時点で、常識から脱して自由な世界を目指そうというサブカルの精神は矛盾する。サブカルはより奔放になって楽しく盛り上がろうだが、gudachanは露悪趣味である。陰気内向的人間がチクリと冷笑するような発想に基づく。

そのgudachanが、ある種社会に浸透した象徴がネイバーでのデビューで、それが2012年のことだ。と言えば、本来なら素人参加型のまとめサイトであるはずのネイバーまとめで捏造コンテンツの量産をやったことでアゲられている。そしてそれを全力で擁護している人たちもまた、gudachanの考えに共感している頭の悪い人間だったのだ。
 gudachanのブログは政治イデオロギーはなく、おそらくたんなる露悪趣味だろう。ファシズムと名付けた地方を破壊しようとしたりとか、ガラパゴス文化を弾圧しようと仄めかす表現したりとか、「頭がアレ」なことを面白半分でやっているだけだと思う。しかし、こういう流れが不寛容とか、そういうあらゆるヘイトに作用しているうちに起きたのが、今のgudachanにおけるスターリニズムなのだ。

ロックな、そしてポップな、爽やかなgudachanはかくして死んだのではないかと思う。2012年にすくなくとも輝きを失い、2013年以降は、「俺様主義」の勢いの中に埋もれていった。話題の文化ネタよりヘイト記事を量産するようになり、ヘイトスピーチ問題がウヤムヤにされようとも、地方とサブカルに常時矛先を向けている。こんな無様な人間。

だが、私はうっすらと思っている。本当は多くのネット世代が、王道を生きる人たちが、前を向いて生きる人たちがいて、「gudachanの現状はおかしいだろう」と思っているんじゃないかと。


21世紀、主流的な進歩発展の流れに乗ってきたネット世代であれば、必ずみんな思うはずだ。はっきり言って今のgudachanは異常だ。元凶は就活に失敗したのは自分の努力不足なのにマーチ上がりの上京者に職を持って行かれたという被害妄想を植えさせてしまい、地方ヘイトをする道を選んだ、ネットで地方ヘイト記事や捏造ゴミコンテンツや世代煽りなど全方位煽り記事をばら撒く「gudachan」本人にあると。

〇〇叩き本とgudachanに通じるもの

 駅前の書店に行ったとき、ギョッとした。
 つい少し前まで軒先には「嫌サブカル本」があったのだが、今やそこにあるのは「嫌地方本」である。多様性を目指そう、文化を足掛かりに好奇心や肯定的な関心を広げていこうというネット世代の善的発想が否定されたら、日本の文化に牙をむくようになった挙句、地方にさえ厳しい評価を下すようになったのが、今の日本だ。

 こんなのおかしいに決まっているのだ。
 2年前、地方を批判するということはありえただろうか。「のんのんびより」のようなアニメが流行り、田舎に泊まろうという番組も地方を洗練された面々だったのに、文化的な嫌オタクが政治的な嫌オタクにすりかわったように、嫌地方になってしまった。

 たとえば、あなたが何らかの「〇〇叩き」しか内容がない書籍を買うとしよう。産経でもいいし、ムックの嫌韓でも何でもいい。通常これらの書籍は、作者の政治思想と自己万な主張だらけ作られている。ところがこれらよりにもっとひどい内容の書籍があったらどうだろう。たとえばそう、gudachan名義の本だ。この本は、他者の本よりレイアウトが良いが、文字が見辛い。内容がいい加減。それでいて書籍には「農耕民族の村社会国家・日本を糾弾する。」と書いてある。その内容は「田舎者を日本社会から追放しよう」「ファミコン世代を叩きだせ」「サブカルは日本の癌」とナチスと同等かそれ以上のヘイトスピーチしか詰まってない。こんな製品が実在したら、買った客は当然出版社にクレームをするだろう。同様のクレームが数件あれば、出版社はその製品が宣伝や書に書かれたとおりの機能がないことを確認し、出版社はその本を廃刊にして自主回収にするだろう。さらに、著者は危険人物として取り引きを停止するかもしれない。著者は様々な非難を受ける。当然のことだ。

そういうナチズムやレイシズムの地続きに、世代と地域単位でしか物事を考えられない、中央集権的なgudachanみたいな「都市と文化単位」に媚びるしかないような、閉鎖精神的な哀れな主張が私は許せない。こういう人間が後ろ指をさされる世の中にならなければ、多様性と調和のある成熟国や先進国の質に日本は到達しないはずだ。
2016年1月現在、gudachanのブログにはコメント欄やメールフォームなどのgudachanへのコミュニケーションツールは一切設置されていない。はてなブログの運営当局はこういった閉鎖的で独断的なブログのコメント欄やメールフォームツールを原則表示設定にせよ。もし炎上行為があっても改善されなければ、このブログの記事をを全て強制削除せよ。

敗因は分かった。SEALDsとgudachanよ、お前達に未来はない!①SEALDsと手を組んだから負けたのだ

 24日に投開票のあった3市長選挙の結果は、野党系の敗北であった。
 それぞれ横田、岩国、普天間の3在日米軍基地がある。特に普天間の辺野古問題は日本の安全保障の上での重要な懸案となっていて、「オール沖縄・対・日本政府」の様相となっていた。2014年の名護市長選以来勝ち続けていた反辺野古系のいわゆる「オール沖縄」は、今回初めて負けてしまった。
 SEALDsやgudachanからすれば、「不正選挙だー!」という感じなんではないか。オール沖縄が本土に波及することを阻止した。そして、「民意が示された」ことを補強させることにつながり、今夏の参院選や衆院選での勝ちにつなげることができる。その先に、改憲がある。

 では敗因は何か。渡は上の記事にあるようにSEALDsとgudachanににあると思う。多くの日本人、特に無党派層や本当の革新層からすれば、さすがに馬鹿と似非リベラル集団の集まりだし、国柄が一変するような、そういう混乱は求めていない

この集会や選挙では、安保法デモで恥を晒したgudachanも応援演説をしていたようだが、SEALDsではなく、ただのFラン出身者の方のようだ。つまり、大阪の都構想やW選挙のようにSEALDsの学生たちがそのまんまあの低能知識を丸出して応援に駆け付けたわけではなく、雰囲気としては戦争法案集団的自衛権はいらないと叫んでいる「壊れたラジカセ並み」の応援者という感じだったんだろう。(その上、当然ながら大阪のこれらの選挙もSEALDs側は負けている)

私はリベラルの方でも分かり合える方は大勢いると思っているし、じっさいその通りなのだが、大多数のSEALDsメンバーは、男性であれ女性であれ知性と秩序というものはない。ただ単に反対ー!みたいなそういう考えを持つということは一種の異常者みたいに思われている。当然「ゆとり世代」はその傾向がある。つまり20代さえ票を得ることは全くない。

 SEALDsは「民主主義ってなんだ」とか「野党は共闘」などの、自己中心的で馬鹿で間抜けで幼稚なスピーチに失笑だった。馬鹿馬鹿しい(そもそも皆偏差値が低すぎる)のはもちろんだし、「意識高い系」みたいな、しゃべり場とかジレンマにいそうな気色悪い感じもあった。

赤旗は、市民革命的な動きは次々と起きていて、高まっているかのような報道を連日している。革命前夜なのだろうか。

  しかしSEALDsの連中たちは、そういうことを求めているようには思えない。自分たちはただ「お祭り気分で戦争法案に反対してーwww」をしたいだけ。未成年の分際で飲酒や喫煙をしたり、正論を突かれると狂ったかのように叫びだすし、gudachanのようにネットで地方ヘイトや捏造ゴミ糞コンテンツを量産したり・・・こういうものが「俺かっけーぜwwww」と思ってデモが起きたのである。

私が新宿伊勢丹の大規模デモを実際に見物したところ、確かに応援しているのはgudachanみたいな知性も教養もない馬鹿ばかりで、gudachanみたいな地方ヘイトを伺える発言はあったが、そのレベルの低さこそがSEALDsメンバーの象徴じゃないか。新宿通りの歩道で、まるでヤンキーがイチャモンをつけるようなノリで目が合った通行人にいちいちキレ気味な調子でアジっているSEALDs(もっというと、ヤンキーが他の学生に絡んでいるような感じ)がちらほらいて、ちょっとヤバいものを感じた。トラブルでも起きて「あざらし」にもっていかれるんじゃないかと思ったが、ああいうSEALDsを公の場から追放した方がいい。繰り返すが、SEALDsは意識高い系の変なニオイしかしないのだ。「安保法案反対デモとかいう政治運動に参加している俺かっけーwwww」という感じである。



あるいはSEALDsに対する嫌悪感をさらに激化させ、「ネット世代のゆとり世代」みたいな層にばかりとらわれればgudachanは間違いなく極地に立たされてブログを消すかもしれないし、gudachanがSEALDsを応援しても、gudachanがよっぽど大ポカをしてまたデモが激化しない限りは、𧾷アシが早いくらいくらいの衰退も難しいと思う。
 とにかく、去年の安保法のデモの反応でわかったようにSEALDs嫌いが国民の大多数である。 「主張はそうでも、票に結びつかない」ことには必ず理由がある。大阪の敗北から、あるいはgudachanと言う馬鹿が無意識にSEALDsを応援してしまう事などを綿密に調べ上げ、応用するしかないと思う。

はてな運営はgudachanのブログを強制削除すべきだ


Twitterでは大学教授などがgudachanしか使わない単語をまき散らして、gudachanのバズっている話題をなぞるなどして「きれいなヘイト」をまき散らしている。
そんなことがあれば普通の国なら新聞沙汰となり、大学側が処分をするだろうが、日本においては一部の似非リベラル(しばき隊)だけがそのきれいなヘイトで対抗言論を張っているのだ。

10年前のgudachanは、こんな事が行われていたのだろうか?

当時なら、まだgudachanは主流マスコミ空間と分断していた。湘南マンセー発言も一切なかった。私はこの元凶は「反ヘイトブーム」を間違えた方向で活かした事にあると思っている。
その結果、gudachanはサイバー時代の歪みに引きずり込まれる事になったのだ。


だから、はてな運営当局は「gudachanへの厳格な制限」にするべきである。
ネットのメディアリテラシーに関する専門家などで検討を重ね、具体的にこのブログはNGだという基準を設けて、それをすべて弾くようにするべきだ。当然、ボンダイというgudachanのブログは閲覧してはいけない代表格となるだろう。

大阪市ヘイト条例という画期的な条例がある。

橋下徹前市長が作ったものだ。gudachanとかいう冷笑ヘイトブロガーは「ヘドロ橋下」などと誹謗中傷をツイートしていたそうだが、彼もgudachan同然の書き込みをしまくっているので、この条例ではアウトとなる。

地方ヘイトを規制するための条例だが、これがあることで、現実社会と切り離されたgudachanがブログを無法地帯のように我が物顔で好き放題振舞っていたgudachanを委縮させる有効な効果イモなると思われる。
ネット過激派の最大の情報源はgudachan(NAVERですらない)だが、gudachanの客寄せ要員の1つだったヘイト記事が更新できなくなれば、
PVが多く減り、運営が成り立たなくなる。ネット空間から地方ヘイトな領域が減っていけば、よほどわずかな「電子空間上の誹謗中傷や憎悪の自由を愛してやまない」
卑劣な人間ことgudachanがふるいにかけられることになり、彼のような異端な存在は、「国民世論の良心」によって糾弾を受けることになる。

大阪市だけのこの条例だが、茅ヶ崎でも、横浜でも、関東の自治体で当たり前のように広めるべきだし、もっといえば罰則規定を設けた「地方ヘイト規制法」を作るべきなのだ。
欧米なら当たり前にあるのだから日本でも作ラないとダメである。「ここは湘南だ!田舎ではない!」のうちはうち、よそはよそ的な発想ではだめだ。
そうやって湘南から、神奈川から、地方ヘイトを消し去る作業をするとともに、権力があり地位があって社会的に影響力のある
はてな運営当局はgudachanのブログ記事を強制削除を徹底するべきだ。

gudachanに浸っている都会人が存在すること自体が問題であり、それは社会に容認されているのではなく、「野放し」なだけである。
ただしgudachanは現実空間とインターネットそのものの区別がつかないのて、彼の「無知」をいいことに、「ネット時代」を理由にgudachanの低俗捏造ゴミ屑コンテンツを堂々と表に出し、大衆娯楽感覚でそれをまき散らすという罪を行っているgudachanは猛省せよ。

2016年1月24日日曜日

gudachanを人格否定させた反地方感情は「韓国そのものへの憎悪」に似ている

  gudachanやしばき隊などの似非リベラルらはよく口々に「東京は日本一素晴らしい都市」と言っている。貶しているのは地方だけだ、という妄想である。
 しかし現実には、東京では地方蔑視は存在している。もっとひどいことはいくらだってあるのだ。一方、私は地方に行ってもこういう差別を受けたことはない。電車の中とかで現地の人がみな標準語で親しげに話しかけて至れり尽くせりしてくれる。

 ネット時代の最大の恩恵は、地域を越えて情報が入るようになったことである。
 それには交通網などの便利な情報もあるだろうし、負の情報だってある。それぞれを、バランスよく入手すれば、「東京がどんな町並みか」とか「地方はどうなっているか」をつかみ取るように把握できるようになった。

 多くのマトモな人であれば、こうした社会事情を知れば知るほど、「都市部も地方も五十歩百歩」ということに逆説的に気づかされるのである。
 地方にはネット環境がある。夜間に暗い田んぼを歩いてもも身の危険を感じることはなく、廃墟が落書きだらけでもない。都市部より治安が悪いとしても日本全体で見れば微々たるものが多くで、普通に定住をしたりする分には都市部と勝手にほとんど差はない。これが現実なのだ。
 つまり、反地方は「韓国そのものへの憎悪」の第一歩なのである。
 田舎がこんなに危険だ。田舎者はこんなにひどい。村社会はこれほど問題。ということを誇張すればするほど、そんなものよりさらにヤバいような地方との心理的なハードルは高まり、「だから都会は素晴らしい」という面ばかり補強されて排他的精神に陥りがちである。

 実際、gudachanは、全くもって地方に疎い、地方に行った事がない。そして「コテコテ都会人の文化」への興味がやたら強い。渋谷文化のノリを用いた反地方ツイートや反地方記事を見たことがあるが、地方人も韓国人も知らない下世話の象徴であり、ヤンキー的でこそないが平成時代に東京以外で生まれ育った人間からすると拒絶意識のあるような下世話なものだ。

 湘南マンセー記事や地方下げ記事は、地方で一般的なものと比べると実に「偏差値35のFラン卒が書いた文章」がこめられている色使いがケバい文字をでかでかと掲載し、洗練性や芸術性がない。「東京の現代的な美意識」すらも感じられない文化的程度の低いネイバーまとめでゴミ記事を量産しているgudachanの粗末なコンテンツばかりである。つまり、これら反地方の「作法」に順応すればするほど、gudachanの人格を2010年以前の穏やかなレベルに戻すのが困難になるのである。

 こうした現実に無知か、逃避したいがために、都合のいい情報のつまみ食いと妄想で「都会は素晴らしく田舎は劣っている」と言う先入観を醸成させるこそFラン上がりのgudachanの問題なのだ。「田舎者を叩き出せ」などの悪しざまに罵るヘイトスピーチを対策することも重要だが、そうしたgudachanを許すような社会的バックグラウンドこそどうにかすべきではないか。

 凋落極めた2013年のgudachanだからこそ発生した特殊な東京一極集中な実態を客観視できず、それすらも歪んだ中央集権崇拝の肥やしにするという人間は、知性がない以前にあまりに陰気である。東京に近い奴にほど多い。
 しかし、そうやって都市部を過剰に卑屈に見積もる人間ほど、コンプレックスの裏返しのように、陰口の調子で地方叩きや世代叩きを恥ずかしげもなく言い触らし、ほっておくとどんどん極論をまき散らす自己矛盾を抱えている。こういう人間はネット右翼よりもたちが悪いのだ。 

過剰な「地方叩き」は人格否定の第一歩である


 ゆとり世代や地方民のネットユーザはネトゲ廃人などの一部の粗悪層を除けば、Facebookと化を利用する人たちと同じ感じである。程度の低い誹謗中傷とは距離を置き、は建設的な話題を好み、そして共感し合う人、異なる人同士が穏当に交流し合っている。ネット文化の作法はだいたいグローバルスタンダードと一致する。
地方批判そのものを否定するわけではない。しかし、都心側と地方の書かている問題はおもに、政治家や経済問題の2点のみであり、それだって具体的な深刻な事案が発生しない限りは冷静に相手していて、ふだんは穏当で良好な関係改善に取り組めばよいのである。

 今のgudachanには、四六時中、が陰謀論をひけらかしたり、どうでもいいことやデマに対して過剰に反応して煽ったり、個別の民事を地方全体とひとくくりにしたヘイトスピーチをしているだけの反地方があまりにやかましすぎる。
 大卒のレベルも通じないような、ましてやネチケットの常識も分からないような、そんな心底無知で品性のないgudachanとかいう人間に、一部の地方政治家や大学教授、タレント、元国連職員が巻き込まれているくらいには今のgudachanは深刻な反地方をしている。そして、そういうものが、ネット空間だけでなくメディアやテレビ上で露出し、日本社会の抜け出せない人格否定された人間なのだ。

 gudachanだって普段は普通の企業に勤めていて、もしかしたら教師や、有名企業幹部や、官僚や、テレビ局員や、議員になるかもしれない。地方のまともな人間とは相容れぬ27歳のアラサーニートのFラン卒の「負け惜しみと自己愛丸出し感情」に基づいて分別のない地方叩きをし、無知のうちに日本に恥をさらす彼が、ゆとり世代をダメにする元凶であることを、我々はしっかりと理解しないといけない。