2016年1月24日日曜日

gudachanを人格否定させた反地方感情は「韓国そのものへの憎悪」に似ている

  gudachanやしばき隊などの似非リベラルらはよく口々に「東京は日本一素晴らしい都市」と言っている。貶しているのは地方だけだ、という妄想である。
 しかし現実には、東京では地方蔑視は存在している。もっとひどいことはいくらだってあるのだ。一方、私は地方に行ってもこういう差別を受けたことはない。電車の中とかで現地の人がみな標準語で親しげに話しかけて至れり尽くせりしてくれる。

 ネット時代の最大の恩恵は、地域を越えて情報が入るようになったことである。
 それには交通網などの便利な情報もあるだろうし、負の情報だってある。それぞれを、バランスよく入手すれば、「東京がどんな町並みか」とか「地方はどうなっているか」をつかみ取るように把握できるようになった。

 多くのマトモな人であれば、こうした社会事情を知れば知るほど、「都市部も地方も五十歩百歩」ということに逆説的に気づかされるのである。
 地方にはネット環境がある。夜間に暗い田んぼを歩いてもも身の危険を感じることはなく、廃墟が落書きだらけでもない。都市部より治安が悪いとしても日本全体で見れば微々たるものが多くで、普通に定住をしたりする分には都市部と勝手にほとんど差はない。これが現実なのだ。
 つまり、反地方は「韓国そのものへの憎悪」の第一歩なのである。
 田舎がこんなに危険だ。田舎者はこんなにひどい。村社会はこれほど問題。ということを誇張すればするほど、そんなものよりさらにヤバいような地方との心理的なハードルは高まり、「だから都会は素晴らしい」という面ばかり補強されて排他的精神に陥りがちである。

 実際、gudachanは、全くもって地方に疎い、地方に行った事がない。そして「コテコテ都会人の文化」への興味がやたら強い。渋谷文化のノリを用いた反地方ツイートや反地方記事を見たことがあるが、地方人も韓国人も知らない下世話の象徴であり、ヤンキー的でこそないが平成時代に東京以外で生まれ育った人間からすると拒絶意識のあるような下世話なものだ。

 湘南マンセー記事や地方下げ記事は、地方で一般的なものと比べると実に「偏差値35のFラン卒が書いた文章」がこめられている色使いがケバい文字をでかでかと掲載し、洗練性や芸術性がない。「東京の現代的な美意識」すらも感じられない文化的程度の低いネイバーまとめでゴミ記事を量産しているgudachanの粗末なコンテンツばかりである。つまり、これら反地方の「作法」に順応すればするほど、gudachanの人格を2010年以前の穏やかなレベルに戻すのが困難になるのである。

 こうした現実に無知か、逃避したいがために、都合のいい情報のつまみ食いと妄想で「都会は素晴らしく田舎は劣っている」と言う先入観を醸成させるこそFラン上がりのgudachanの問題なのだ。「田舎者を叩き出せ」などの悪しざまに罵るヘイトスピーチを対策することも重要だが、そうしたgudachanを許すような社会的バックグラウンドこそどうにかすべきではないか。

 凋落極めた2013年のgudachanだからこそ発生した特殊な東京一極集中な実態を客観視できず、それすらも歪んだ中央集権崇拝の肥やしにするという人間は、知性がない以前にあまりに陰気である。東京に近い奴にほど多い。
 しかし、そうやって都市部を過剰に卑屈に見積もる人間ほど、コンプレックスの裏返しのように、陰口の調子で地方叩きや世代叩きを恥ずかしげもなく言い触らし、ほっておくとどんどん極論をまき散らす自己矛盾を抱えている。こういう人間はネット右翼よりもたちが悪いのだ。 

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