2016年1月24日日曜日

偏狭的なgudachanを嘲笑しよう

歴史に学ばずファシズムのホロコーストやスターナリズムの右翼を復活させる行為そのものが地方創生に対する冒涜と言われても仕方ない行為である。時代の流れで歴史のドブに捨てられた風潮を再び持ち出すことはありうるとしても、それは最低限首長や議会の任期期間レベルの、相応の時間が経過してからでなければ許されないというものだ。そんな地方秩序の存在そのものに対する冒涜行為を働いたgudachanを容認した東京都心の住民の良識も問われる。これで再び「地方創生」へのヘイトスピーチ撲滅や都市部のさらなる右傾化などが働かれれば、地方全体はおろか、都市全体から日本社会は政治や民主主義に対する根本的冒涜行為を平気で容認する民度であるとみられて当然である。

 左翼を代表して2015年の安保法制茶番劇及びそんな茶番劇を許したgudachanを最大限嘲笑したい。折しも、日本のリベラルが地方派と反地方派で無残な分裂事態に陥った中でも東京民はこの体たらくを演じるような集団を容認したということだ。一方で、国政勢力として日本の左翼を勝手に裏切ったgudachanは、一部の都市住民と協力しようとする動きもみられる。こんな現実がまかり通るのも、常識に逆らうことをよしとしない都会人、いや東京人の民度あっての体たらくだ。やはり、そんな人民の民度を前提にした活動が求められるということでもあるのだ。

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