2016年1月3日日曜日

gudachanに思うこと(転載記事)

自称:反オタク、反サブカル、反右翼
gudachan(ボンダイビーチ)
RATE:馬鹿知識人のワクワクインテリごっこ



 
この混乱期のさなか、各知識人とも生き残りを賭け、個人はより的確な判断を迫られている。また、敵に勝ち残るべく、より高精度な言論をより高効率でする努力を迫られている。だが、これらの努力を完全に放棄している知識人があるとすると、どうだろうか。彼らはおおよそ誰も喜びそうにない、低精度な言論を乱造しつづけ、利益を得ている。品質なき言論。そう、彼らは品質ではなく虚飾によって利益を上げる個人なのである。
「品質」を理解できない人間が主張を喧伝し、言論するとき、その品質を虚飾で隠さねばならない。いかにも皆が欲しがりそうなタイトルを並べ、たくみな宣伝文句で購読へと誘導する。彼らの手口はいつも同じだ。皆が欲しがりそうなタイトルとテキストを並べる。(これが普通の個人の普通の言論であれば、さぞすばらしい話題であろう!) だが、いざクリックをすると、たしかに同じ話題は出るものの、頓珍漢な話題だったり、極端に情報がおかしかったり、あるいは事実と矛盾したりする。クレームは一切受けられない。クレームを聞いても反映させる能力がないからだ。注意せよ!「記事を開いた時点で、その言論を肯定したことになるのだ!!」
このページではすでにいくつかのgudachan氏の言動を紹介し、それらがいかに低品質であり、知識人の期待を裏切り、欺瞞に満ちた記事、そして虚ろな個人であるかを明らかにしていこうとする。最近ではネット業界では知れ渡ってしまったせいか、オタクなどにまで手を伸ばし、同じ手口を繰り返し行い、存続している。そこで、このサイトでメインのコンテンツとして取り上げられない言動をここで紹介し、一般消費者への警鐘としようと思う。





馬鹿知識人のワクワクインテリごっこ

かく言う小生がいままでgudachanについて批判しなかったのは、小生自身、以前リベラルで名を馳せた時期があり、この人物と少し付き合いがあったからだ。あまり具体的に書くとソシャールされる恐れがある上に、この個人の執筆は閉鎖的人物のみを相手にした電波記事で人or金を巻き上げることであり、評価するに価しないと考えている。しかしここ近日、gudachanの記事を読んだ者から、誤字脱字が多い、他人の同じ記事に比べて明らかに低品質、誹謗中傷された、などの声が相次ぎ、この個人はいったいどういう人物かと疑問の声が大きくなった。消費者がようやく気づき始めたのだ。
さて、このgucachan がどれだけ稚拙な個人であるか見てみよう。まず来歴をみてわかるとおり、出身校の知名度が低い、あるいは無名であるのが一目でわかる。底辺高校出身とカミングアウトするあたりはかなり肝の座ったギャグだろう。このサイト、昔はかなりマシだったのである。今は地下サイトよろしくバグッたコードがあって、そこから編集用のファイルが丸見えということがあった。さらにある記事ではソースに特定の人間を罵る文章もあった。(保存しておかなかったのが悔やまれる)内部的に不満が多く、モラルが低いことの現れだろう。
主力記事のオタク叩きにはまったく一貫性が見られない。タイトルの割に明らかに内容不足なものも多い。だが、そんなインチキ記事にもかかわらず一定数以上見られるのも事実なのだ。どうせ見るのは地下サイトの固定ファン層と、とりあえず(不幸にして)見てしまったズブの素人ばかりなのだ。どんな記事でも流せば売れてしまう・・・これは知識人の努力を麻痺させたに違いない。この方に限らず、海外でもかなり異常、粗悪な知識人や商品が多いのも事実だ。これも同じ理由によるものだろう。
この方は関東地方の文化問題に特化した記事を何回か公開している。当然彼らは今時の日本人や嘗ての不良集団・ヲタク(オタクの皆さんに失礼だが)並の視野の狭さを持って、堂々と記事で自慰行為を続けている。よって、世に出される記事は彼の精子であり、そんな臭いものは誰も読まないのだ。新自由主義でメディア業界が多様化する現在、マーケットを見てユーザーを広げるのが適切であるのにそれが行動に現れないのは彼が無知である証拠である。最近は文化関連以外に、左翼礼賛記事や右翼批判記事を出しているようであるが、一部を除いてどれも芳しくないように見える。
彼の性格は、とにかく「ワンマン」の一言に尽きる。メディアを「情報発信する道具」としかみておらず、メディアが何であるか、空気を読むとは何か、一般人が何を欲しているかがすっぽり欠落している(モラルの問題と無関係ではあるまい)。商売に例えれば、とにかく自分の思い付きを製品にし、(ユーザーではなく)問屋に製品を流せば金が入ってくるとしか考えていない。商品の内容に関してはとんと無知であるので、内容にはまったく価値を求めず、いかに消費者を騙して売るか、という方向に向かうのだ。これらが表面化しないのは、ひとえにインテリという限定されたマニアックな場所でしか活動をしていないからだ。文化面、ビジネス面と、さらに大きなフィールドに出ると、問題点が一気に噴出するであろう。メジャー化を目指すからには近い将来、必ず大きな意識改革を求められるに違いない。






ある文化人の体験談より~gudachanと瓜二つの人~

私の妹の知人であるA氏はかつて、2000年代にジャーナルを行い、成果をネットなどに公開していた。それなりに多くの支持を得ていたつもりだ。時を同じくして、取材先であるBも、ネットを通じて様々な宣伝を行っていた。そして当然のようにAのところにも声がかかってきた。自分の仕事の成果が書籍になるということで、ただ単に嬉しかった。小遣い稼ぎとしてはかなり良い金額になった。自然とBとの付き合いも増え、ジャーナルやその他のことについて話す機会も多くなった。「何だかおかしい」という気持ちがだんだん強くなってきたのはこの時期だった。はじめはただの早口でしゃべる偏屈人間だと思っていたのだが、単に仕事を請け負っているだけだし気にしないことにしていた。しかし、話す内容がどうもおかしい。どう見たって支持を得られそうにない製品を持ってきて、「これはどうですか」と意見を求められる。Aが返答に窮していると、そばにいる編集者が「社長、これはすばらしいですよ、すばらしいグラフィックスですよ」と声をかける。完成した書籍をAに見せて、「どうですか、すばらしいでしょう、これは3万本売ります」と言う。書籍にはやぼったい改造バイクの画像。「いや、これはちょっと・・・」とAが答えると、「そういうのは、誰もわからないからいいんですよ」とB。「○○を売ります」とか「○○万円儲かります」という話は口にするが、なぜこれを売るのか、なぜ売れると思うのかなどという話がまったくない。

Bや彼の所属する出版サークルとはその後たびたび会ったが、正気を疑うようなことがよくあった。打ち合わせでは、やたらハイな気分で自分の気の向くままに早口でしゃべり、早々に帰ってしまう。こちらがしゃべっているときはアサッテのほうを向いている。あとで電話をし、「私は○○と言ったはずですが」と確認すると、きょとんとして黙り込んでしまう。さらに、昨日話したことと言うことが180度違う。それを指摘するとまたしばらく黙り込み、今度は「状況が変わりました」とくる。ひどいときには同じ会話の中で正反対のことを言う。言い訳は決まって「状況が変わりました」だ。はて、そんなに簡単に状況が変わる物なのだろうか。変わったのは状況ではなく、自分の気分ではないのだろうか。企画意図も自分の気分しだいだから簡単に状況も変わるのだろう。いやいや、もしかしてこの人、先日話した内容を覚えていないのかもしれない。ドライブやツーリングなどで時間を共にすることも多かったが、自分の行先を覚えていない、不自然な走行態度、周囲の目を省みない運転など、気になることが多かった。こんなことがたびたび続いたので、周辺のうわさをチェックすると、いつもこのような調子であるらしい。ADHDやPTSD、統合失調症などの病名が一般化しているた今、もはや人格や個性、知性といった問題ではなく、脳に何らかの疾患を抱えているのではないかと心配するほどだ。

まっとうな会話すらできないのでなかなか近寄り難い人間なのだが、すでに何人かのB信者を味方につけていたので、その人たちに擁護されている。B信者にとってBはサブカル界の偉大なる立役者様だ。ちょっとキ印の入ったBとB信者らの織り成す小さなコスミックワールドは、近寄り難さを増長し、禁断の聖域となっている。

その後、Bからの電話やメールを無視しつづけていると、次第に連絡が来なくなった。さて、このような内情を持つBが、内外に対してどのような影響を持つのか考えてほしい。サブカル経験者ならよくご存知だろう。隔離された閉塞的思考、「誰もわかりはしない」という甘い考えは、誰も欲しがるとは思えない。ゲームで例えれば説明通りに機能しない、すぐに壊れる、元あった製品の機能が損なわれる、などの著しく低品質な製品を生みだした。サブカルのみならず、サブカルチャーやメインカルチャー、地下に進出し、今なお相変わらず同じ手法で消費者を欺きつづけている。経営者の人格は商品に現れる。そう考えて間違いない。日常生活にも支障が及ぶほどの知性に、「顧客の満足」などという高度な概念が理解できるはずなどないのだ。

 ここでの章で紹介された人物は、gudachan氏と一切の関連はない。しかし、この章を見る限り、gudachanがどのような人柄なのかというのが想像できるだろう。





サブカル批判は悪か
gudachanを批判する理由の一つに、サブカルの全否定がある。だが、これは本当に悪なのだろうか。他にもサブカルに関する相互批判を行った事例はいくつもある。では、gudachanのサブカル批判は、ほかと何が違うのであろうか。・・・と書いてはみたが、もう明白だろう。ほとんどのサブカル批判は、批判と改善案をせっとんにしている。きちんと「これなら点を取れるであろう」という決定的な差がつけてあるはずだ。外山は野間氏をサブカルの定義やそれに対する考え方という面で非難している。外山氏は、海外ではサブカルとサブカルチャーは同じものとして区分されていると主張している。外山の場合、野間批判の際に、「サブカル批判の野間がオタクと一緒では説得力がない」と主張している。いずれも、批判にはその続きがあるのだ。
gudachanのサブカル批判はどうだろうか。自身の感性のみでサブカル批判が行われている。しかも、論理的根拠に欠ける。特にサブカルが非生産的だとか、退廃的というわけでもない。サブカルが不景気などを引き起こしているというのならまだしも、サブカルによる善い経済効果がすでに全国各地で発生している(しかも都会田舎問わず)。これに納得できるものは、おそらく、自分を正当化するなら屁理屈に走る彼しか居るまい。
また、彼の公開する記事は、記事のなかでも特に高品質というわけでもない。むしろ、品質に疑問を感じることが多く、私に言わせてみればわざわざ的外れなものをセレクトして収録しているのではないかと思うほどだ。根拠も、素人からの証言だったり、大きなお友達の独り言のように、専門用語の羅列だったりと、みっともないことこの上ない。他人を罵る感性はあるが、他人を批判する知性は皆無であることがうかがえる。結局のところ、知識人は「知性」なのだ。いくらサブカル批判を正当化しようとも、知性が不在であれば認められないのだ。

プロの知識人に比べ、時間を払うメリットのない記事。低品質な内容。まったく同じ内容がタダで落とせること。これらすべてが組合わさって導き出される答えは、「知識人として失格」である。そう、これこそが「サブカル批判は悪」の核心なのだ。サブカルのユーザーに何か釈然としない不満があるから、サブカルの批判は悪いんじゃないか、という言葉でささやかれるようになったのだ。
現在では、一般人が不調やマフィアに飽きたこと、メインカルチャーが不出来であったことなどから、メインカルチャーの売れ行きも芳しくなく、サブカル批判も息を潜めているようだ。だがサブカルユーザーは油断してはならない。サブカル批判は悪だが、それを悪とせず、己の保身のために正当化するgudachanの品行こそが悪の根源であるのだ。

注意。この項を読んで「gudachanの記事は面白そうだから見てみよう」などとは思っても実行しないこと。よく覚えておくがよい。消費者の意思表示は「読む」「読まない」だけしかないのだ。たとえ冗談であっても、相手に渡した利益は冗談にならない。





愛国叩きとgudachanの社会観
アメリカの日本統治を批判する書籍はたいそう売れたらしい。当初、このような書籍は様々な課題があり、まともに売れないだろうと思われていた。この書籍に掲載されている情報はやや難解かつ誤解を生みかねないものであり、解説がないためか事前学習が必要である。この、極めて安直ではあるが知性にものを言わせてゴリ押しで実現してしまう手法は、頭の悪い日本信者らの「理解できないのは知性が低いからだ」という思い込みのため、その後信者に定着した。だが信者は、その盲信っぷりのために、著者から手ひどい仕打ちを受けてしまった。
さて、gudachanによる愛国叩きを覚えているだろうか。これらもそこら中にある証言をかき集めたものである。これはおかしな記事だった。検索すると、たしかに記事にある絵と同じ絵は出る。しかし、そこで紹介されている文章は彼の文章とは無関係あるいは180度違う表現のものだった。これは単に感性というレベルの問題ではない。彼としては同じ絵が出るから嘘じゃないといいたいのだろうが、外部の情報を元にしている以上、引用記事として紹介しているものの引用元と180度情報が違えばこれはただの二次創作である。当然、彼はこの事実を把握していたに違いない。にもかかわらず、事実を伏せて公開したという、不誠実さ。さらに、何の自己批判もなく、適当な引用を元に結論を出すという稚拙な考えしか思いつかなかった表現力のなさは批判されて仕方がない。
学習能力のないgudachanは、新自由主義に関する言及でもまた同じ過ちを犯してしまった。日本の社会問題に関する記事では、「日本人のオタク精神による悪影響」「ブラック企業や日本の右傾化問題は日本人が海外に謙虚であればありえなかった」とあるが、それと日本の社会問題のどこに合理的な接点があるのだろうか。一部の読者はこの問題を解決できなかったらしく、仕方がないので、この事実を公表せず、著者を批判しないどころか、この記事を受け入れて広めてしまった。不幸にも紹介された人は購読してびっくり、金の代わりに時間を無にしてしまう。これは、少なくとも社会知識人としての素性が疑われることは明らかだ。これを隠匿するということは、彼としては「声が大きければ勝ち」という意図の現れとしか考えられない。なんてわかりやすい人なのだろう!! 哀れでならない。

※2015年12月現在、コメント欄や連絡先は公開されていない。すべての読者はgudachanのブログの連絡先を確認せよ。もし問題行為があっても公開されなければ、このブログの購読を中断せよ。これが知識人のルールだ。




著者、流通、読者のモラル

たとえば、あなたが何らかの書籍を買ったとしよう。アサヒの新聞でもいいし、講談社の漫画でも何でもいい。通常これらの書籍は、他社の競合製品に勝つように最大限の厳選がなされ、また、ユーザーの見る環境を考慮して確実に購読できるように、最大限に努力を注いで作られている。ところがここにそうでない書籍があったらどうだろう。たとえばそう、gudachan出版の小説だ。この本は、他者の本よりレイアウトが悪く、文字が見辛い。製本がいい加減。それでいて書籍には「とても読みやすい書籍です。」と書いてある。こんな製品が実在したら、買った客は当然販売店にクレームをつけるだろう。同様のクレームが数件あれば、販売店はその製品が宣伝や書に書かれたとおりの機能がないことを確認し、商品をメーカーに返品するだろう。さらに、要注意メーカーとして取り引きを停止するかもしれない。企業は利益をあげるためにユーザーの支持を得ようと努力し、そうでない企業は淘汰される。当然のことだ。

しかし、ネットPC市場ではなぜかこの常識が通用しない。ゲームを買ったけどうまく動かない、入れたらコンピュータがおかしくなった、箱に書いてある機能が得られない・・・。こんな製品をつかまされても、どういうわけかPCユーザーは文句の一つも言わないし、同じ製品を買いつづける。これは古くから、PCは自己責任で使用するもの、という常識が根付いているせいもあるだろう。PCは要素が非常に複雑であるため、ユーザーの使用方法が間違っているのか、製品に原因があるのか判別しにくい。特にゲームという製品は非常にメンタルなもので、満足度は人の趣味嗜好などによって千差万別だ。「買ってみたけどたいしたことなかったな、こんなもんか。」ちょっと待って欲しい。冷静に考えれば100%不良であるケースも判別できるはずだ。クリーンインストール後のPCにセットアップしたり、別のPCでも同じトラブルが発生するなどがこれだ。

gudachanの記事はこれが実に多い。不幸にしてあなたがgudachanの記事を購読しているなら、その記事について冷静に考えて欲しい。あなたが思った不満は、主観によるものではなく、不買に相当する欠陥ではないだろうか。サブカル叩きでは、事実や引用先の情報とは180度異なるもので紹介される。それは、意図的に誤解されやすいように作ってあるからだ。政治に関する記事にうそが多いのは、事実確認を怠っているからだ。表現に稚拙なものが多いのは著者が原因であってユーザー責任ではないし、理由はともあれ、読者としては意味不明としか言いようがない。

頭の悪い者は「gudachanさんはとても丁寧に対応してくれましたよ。」という。だから「gudachanさんはとてもいい人物ですよ。」と言いたいらしい。そんな馬鹿なことがあるはずがない。まじめな下っ端プロバイダーの応対と、その筆者の方針や品質とは無関係である。ユーザー間でgudachanが糾弾されているのは、非常に多くのユーザーがすでに品質や対応に疑問を持っているからだ。大きな問題を隠匿して公開することを考えれば、「無益」と言っていい。それを、自分個人が一度よい対応を受けたことがあるからと言って、その人物を擁護するのは頭が悪すぎる。たった一度のサンプルが良いからすべて良いとは限らないなんてことは中学生だって思いつく。偶然被害を免れたとしても、意図的に欠陥記事を製造、公開しているのだから、いずれその馬鹿もしっぺ返しを食らうのも時間の問題だ。「がんばってください」や「次に期待しましょう」は、その記事がまともに製作されており、読者が満足するように「作られている場合にのみ通用する言葉だ。

この手の読者からしてみれば「無料だからまあいいか」かもしれない。読んだ馬鹿も広めた馬鹿もよく考えて欲しい。このブログは同じ過ちを何度も繰り返している。これはもはや特定の記事の問題ではなく、確信犯だ。

転載元 
※現在、gudachanが運営しているツイッターのアカウントは@bonchacchaとなっています。(但し鍵垢に設定しているため閲覧不可)
鍵垢に設定して以降、gudachan(緯度おじさん)の暴言癖がますます悪化しており、彼の自己中心的な性格と他人を尊重しない独断的・排他的な性格になっており、「この世界は全て俺にとって都合が良い社会にならなくてはならない、俺の意見に逆らう逆張り冷笑系と不寛容な輩どもは一人残らずぶっ潰す」という野望が見え見えになっているのです。gudachanのブログは早い段階で削除させなければならないのです。

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