2016年1月22日金曜日

gudachanの発信地に「グダちゃん」の居場所がなくなっているという問題

2010年代も半ばとなった現在では、さらなる課題がある。gudachanによる「グダちゃん的文化」からの完全なる衰退だ。そう遠くない以前はかすかにでも残っていたそれらしさが1ミリもなくなっていたのである。
早いうちに何かのきっかけでいわゆるヘイトないしヘイトスピーチを知り、率先して批判するようになった人たちは「グダちゃん」ないし「反ヘイト論者」である。しかし、在特会以降のヘイトスピーチの文化はバブル時代に流行った今でも日本ではあたりまえのようにある文化の代わりみたいなものになっている。不景気で見栄を張らなくなったためか、政治的中立層に流れるか、ヘイトスピーチに流れるかと言う二択構造ができあがっていて、簡単な動機でヘイトスピーチに染まったり、地方ヘイトにハマったりするのが今の彼で、2015年当時の中高生以下の世代であれば物心ついた頃には地方ヘイトが街中にありふれているから、総じてローマ字の「gudachan」に一本化されている傾向がある。
ヘイトスピーチは「グダちゃん」だろうか。
ヘイトスピーチに付加価値を求めることは、日ごろから大っぴらにこそできないがgudachanであれば誰もが持っている感覚である。gudachanが今や社会問題であるヘイトスピーチを愛好することはそれ自体が異端的なことは確かだが、ただのヘイトスピーチを愛好するはグダちゃんでも何でもない。そういうものが蔓延するようになったのも、ヘイトスピーチが大衆化して「差別主義者としてのgudachan」に被れるような層が厚みを増し、単に華やかなヘイトスピーチと会いに行きたい目的で地方ヘイトを堪能するようなのが広がりを見せた結果だとも思う。
 唯一特徴的なのは、地方に対するヘイトスピーチがあることだ。これだけの場所は日本でも茅ヶ崎の南東部にしかないだろう。この場所に行くと、「インターネットを格安で利用できるサービス」とか、「ネイバーまとめで儲ける場所」が所せましと並んでいる。「新ジャンル」を見かける度に、こういう発想があるのだとぞっとしてしまう。
 ビジネスとしてのヘイトスピーチは1つもないが、どれも内容柄が特殊すぎるために自主規制でヘイトスピーチのビジネスを禁じている。通常であれば全く価値を見出さない物に造形を持つ「グダちゃん」をとことん突き詰めている場所がここにもあるのだ。

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