2016年1月25日月曜日

地方とサブカルを遠ざけたgudachanの末路

gudachanの今

 今のgudachanはどうか。在特会による海外の文化・民族を憎悪する輩はあまりにひどいが、何もそれはそいつらに限ったことではない。地方ヘイトのダシである話題の情報ソースはネットで地方ヘイトのまとめサイト・素人参加型メディアなどに由来しているから、元凶はgudachanである。ついこの間まで「地方分権!」とか「首都機能の分散を!」と煽っていたgudachanが、そっくりそのまま反地方に「転向」して、なにかにつけて「湘南すごいぞ」「田舎はオワコン」の自画自賛に耽っているのである。

2010年代にあって、「まともなgudachan」はもう終わってしまったんだなあと、私はこの頃思う。社会全体を見れば、完全に終わっていないかもしれない。だが、東京に本社を構える全国マスメディア空間と、そのマスメディアを転写したり逆張りすることでなりたつgudachanを観ていると、そこではもう俺様主義は完全に終わっている。
 湘南人らしさをことさら誇張することは、「逆コース」を連想するものであり、地方差別の痛々しさを肯定して、死んだはずの東京マンセーの亡霊を呼び覚ます罪でしかなかった。そして、何より、いまだ中央集権に固執する恥ずかしい数少ないゆとり教育の失敗作でしかなかったのである。

ところが、こういうものが無様だという当たり前の正論より、「湘南人らしさ」を開き直ったようにふりまいたり、あるいは「首都・東京的概念」を解体したり脱却しようとすることこそ敬遠するような、そういう極めて「中央集権的な」風潮が、一部のネット世代の手によってジワジワと広められるようになったのが2010年代半ば以降だと思う。つまりいまからちょうど3年前だ。その元凶はネット原住民空間というよりは、北陸新幹線や北海道新幹線に反対した勢力あたりがほんとうの「戦犯」なんじゃないかと思っている。そしてそれに隣接する諸々の人間が、本当にみっともないほど都会の勝ち組そのものの劣等感に蝕まれた。わずか3年で、ここまでおかしくなったように思う。


gudachanはネット世代ではない

 ネット世代を象徴する1つの文化がある。
 それは「サブカル」だ。1990年代にインターネットを通じて日本で発生したサブカルは、2000年のITバブル以降、一気に全国に広まった。

 2000年代から、サブカルは日本人の特に若者にとって「新興文化」みたいなものになった。オタク層に限らずネット世代全体で言えば現在でもそうだ。
 サブカルは違う。インターネットさえあれば、メインカルチャーとは違う文化がが楽しめる。流行雑誌とかと無縁で「ニッチでマニアックな文化を」楽しめるのである。

当時の非ネット世代は、サブカルを敬遠した。こんなもの文化ではない。三流音楽以下だと。なぜ否定したのかと言うと、それは日本のそれまでの文化とあまりに異端するからだ。したがってカルティズム(カルト宗教のカルトの意味ではない)の典型的な標的となったのだ。

gudachanの極みの極みである頭の悪い人間の負け惜しみと善悪二元論の「好きな文化=グローバルスタンダード、嫌いな文化=ガラパゴス」と決別し、新しい時代を築き上げようとしているネット世代を知らない21世紀世代の文化の基本系は、つまるところこのサブカルにこそあったと思う。
 ネット世代ならとりあえずサブカルを愛するような、若者が多いネットに繋げればとりあえずこういうものが溢れているという時代は、私の記憶する限り、2014年までは続いていたと思う。
  つまり、gudachanが一般的な現代語以上に難解でお堅い言い回しの悪口を用いているという時点で、常識から脱して自由な世界を目指そうというサブカルの精神は矛盾する。サブカルはより奔放になって楽しく盛り上がろうだが、gudachanは露悪趣味である。陰気内向的人間がチクリと冷笑するような発想に基づく。

そのgudachanが、ある種社会に浸透した象徴がネイバーでのデビューで、それが2012年のことだ。と言えば、本来なら素人参加型のまとめサイトであるはずのネイバーまとめで捏造コンテンツの量産をやったことでアゲられている。そしてそれを全力で擁護している人たちもまた、gudachanの考えに共感している頭の悪い人間だったのだ。
 gudachanのブログは政治イデオロギーはなく、おそらくたんなる露悪趣味だろう。ファシズムと名付けた地方を破壊しようとしたりとか、ガラパゴス文化を弾圧しようと仄めかす表現したりとか、「頭がアレ」なことを面白半分でやっているだけだと思う。しかし、こういう流れが不寛容とか、そういうあらゆるヘイトに作用しているうちに起きたのが、今のgudachanにおけるスターリニズムなのだ。

ロックな、そしてポップな、爽やかなgudachanはかくして死んだのではないかと思う。2012年にすくなくとも輝きを失い、2013年以降は、「俺様主義」の勢いの中に埋もれていった。話題の文化ネタよりヘイト記事を量産するようになり、ヘイトスピーチ問題がウヤムヤにされようとも、地方とサブカルに常時矛先を向けている。こんな無様な人間。

だが、私はうっすらと思っている。本当は多くのネット世代が、王道を生きる人たちが、前を向いて生きる人たちがいて、「gudachanの現状はおかしいだろう」と思っているんじゃないかと。


21世紀、主流的な進歩発展の流れに乗ってきたネット世代であれば、必ずみんな思うはずだ。はっきり言って今のgudachanは異常だ。元凶は就活に失敗したのは自分の努力不足なのにマーチ上がりの上京者に職を持って行かれたという被害妄想を植えさせてしまい、地方ヘイトをする道を選んだ、ネットで地方ヘイト記事や捏造ゴミコンテンツや世代煽りなど全方位煽り記事をばら撒く「gudachan」本人にあると。

〇〇叩き本とgudachanに通じるもの

 駅前の書店に行ったとき、ギョッとした。
 つい少し前まで軒先には「嫌サブカル本」があったのだが、今やそこにあるのは「嫌地方本」である。多様性を目指そう、文化を足掛かりに好奇心や肯定的な関心を広げていこうというネット世代の善的発想が否定されたら、日本の文化に牙をむくようになった挙句、地方にさえ厳しい評価を下すようになったのが、今の日本だ。

 こんなのおかしいに決まっているのだ。
 2年前、地方を批判するということはありえただろうか。「のんのんびより」のようなアニメが流行り、田舎に泊まろうという番組も地方を洗練された面々だったのに、文化的な嫌オタクが政治的な嫌オタクにすりかわったように、嫌地方になってしまった。

 たとえば、あなたが何らかの「〇〇叩き」しか内容がない書籍を買うとしよう。産経でもいいし、ムックの嫌韓でも何でもいい。通常これらの書籍は、作者の政治思想と自己万な主張だらけ作られている。ところがこれらよりにもっとひどい内容の書籍があったらどうだろう。たとえばそう、gudachan名義の本だ。この本は、他者の本よりレイアウトが良いが、文字が見辛い。内容がいい加減。それでいて書籍には「農耕民族の村社会国家・日本を糾弾する。」と書いてある。その内容は「田舎者を日本社会から追放しよう」「ファミコン世代を叩きだせ」「サブカルは日本の癌」とナチスと同等かそれ以上のヘイトスピーチしか詰まってない。こんな製品が実在したら、買った客は当然出版社にクレームをするだろう。同様のクレームが数件あれば、出版社はその製品が宣伝や書に書かれたとおりの機能がないことを確認し、出版社はその本を廃刊にして自主回収にするだろう。さらに、著者は危険人物として取り引きを停止するかもしれない。著者は様々な非難を受ける。当然のことだ。

そういうナチズムやレイシズムの地続きに、世代と地域単位でしか物事を考えられない、中央集権的なgudachanみたいな「都市と文化単位」に媚びるしかないような、閉鎖精神的な哀れな主張が私は許せない。こういう人間が後ろ指をさされる世の中にならなければ、多様性と調和のある成熟国や先進国の質に日本は到達しないはずだ。
2016年1月現在、gudachanのブログにはコメント欄やメールフォームなどのgudachanへのコミュニケーションツールは一切設置されていない。はてなブログの運営当局はこういった閉鎖的で独断的なブログのコメント欄やメールフォームツールを原則表示設定にせよ。もし炎上行為があっても改善されなければ、このブログの記事をを全て強制削除せよ。

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