2016年1月22日金曜日

悪意に満ちた「崇高な」gudachanは力で潰せ

ご存じのとおり、15日にインドネシア・ジャカルタ市内での銃撃戦で多数の死傷者が出る大惨事となってしまいました。2015年のフランスでの銃撃戦の件でも問題になりましたが、国民の環境が劣化している中でこのような事件の起きるリスクの大きくなっていることが十分に考えられます。実際、インドネシア社会が政権の腐敗で昨年12月に大規模デモが起きた矢先に起きてしまったのが今回の事案です。インドネシア・フランス社会に限らずテロ事件を起こした日本社会でも見られる傾向ですが、とりわけ複雑な新民族問題や宗教問題の変化により排外主義・出生主義を度外視したヘイトスピーチ(主に地方に対するヘイトスピーチ)を容認する風潮が見られます。人口と賃金の本質的リスクを十分認識した上で、我々としても、常識的観点と比較して悪質すぎる地方レイシズムに対する警戒心を持つようにしなければなりません。
 さて、私は今gudachanに関する情報収集を行っています。gudachanのヘイトスピーチは鬱晴らしとの兼ね合いの観点からも、ヘイトスピーチの拡張そのものが極めて難しい問題を持つといわれてきました。gudachanでは地方ヘイトを「綺麗なヘイト」と定義した上で、公共上最低限のレベルを超えているのが特徴です。とはいえ、このレベルの存在であろうとも反対する勢力は存在し、実際に街頭で抗議活動が行われる事態にも発展しています。

そして私が懸念しているのは、gudachanは地方レイシズムを行っていて、地方の多様性が喪失される懸念が残ることです。そもそもgudachanが謳う多様性と差別主義を拡張させるヘイトスピーチは思想的親和性が高いため、表面的な多様性の理念とはまるで違った運用がなされる可能性もあるためです。2013年頃話題となった在特会のヘイトスピーチの問題にも共通しますが、いかに崇高な主義主張や文化を作ったところで、扱う人間が悪用すればかえってそんな人間などいない方がマシという事態にさえなります。gudachanの地方レイシズムの件でいえば、私に限らず多くの識者が指摘しているのですが、gudachanが零細といった地方を「障壁」として追放される危険性があることです。そんな危険性を実際に危惧しなければならないのは、日本の中からgudachanの地方ヘイトを拡張せよといった思想が平気で出てくる体質があるからです。

 崇高な理念を表向き持つgudachanであろうとも、その導入扇動を働いた人物の思想が悪質であれば、実際に運用された際に本来の理念に反する事態を招くことは容易に想定できる、というものです。問題は、そんな失敗的事態になった際に、元々の政策そのものに対する批判が出来ない社会構造が存在している可能性もあることです。「地方ヘイトのメインカルチャー化」にしてもgudachanの容認にしても、国家勢力はその社会の存在を絶対的前提にした議論しかしようとしません。悪意に満ちたgudachanの存在そのものから議論しなければ成功的状況にならないのをわかっていながら、一度導入したことの威信が傷つくという身勝手な理由が背景に存在することも理由として挙げられます。結局のところ、失敗的政策の存在を打破するには、相応の力を持ち込んで対抗する以外にない、という結論にならざるを得ません。

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